第三話
第二話 いざ、上海へ<初めての中国太極拳武者修行>
市民太極拳教室終了後、講習会で私に近づいてきたお二人を会運営と指導による週一回の同好会活動が始まり、仕事を終えた7時から二時間の練習には物覚えの悪い私はほぼ毎週皆勤出席をして套路をまず覚えることに専念していました。一年が過ぎるころには第一話でお話ししたビデオも見つつどうにか套路を覚えることができました。当時は京都市内にあった団体が分裂しそれぞれの地域などで同好会活動が行われていました。私が市民講習会で今後の京都での太極拳活動の一角に参画させるべく画策した、この同好会でも会長と指導をしていただいた男性(今後はI氏と明記します)はその当時さらに活動を活発にする事をお考えのようでした。京都市の友好都市中国西安市との関係が太極拳を通じて市民スポーツ教室で開花し、行政とともに自分たちの団体活動を発展させていこうというものです。そういう行政との関係構築に尽力されていたのか、その後私にある地域女性会での太極拳講習の講師依頼の話が舞い込みました。「私はこの一年でどうにか套路をおぼえたばかりですが、・・・」という私の言葉もI氏のお頼みを断ることはできませんでした。今思い出すと毎回の指導にびくびくの日々であったと思います。気づいたらその後も近くの体育振興会や他市同好会の指導など、仕事が終われば週四日指導に駆け回っていました。
ちょうど太極拳を始めて1年数か月たったころ、後年京都・滋賀の同好会が集結した団体ができるのですが、その前身で京都で活動していた同好会の太極拳同志による私にとっては初めての中国上海の太極拳武者修行参加の機会を持つことができました。初めての中国訪問である1987年の暑い8月の上海虹橋空港到着時には飛行機の窓から見える中国に興奮とともに緊張感が同時にありました。どうして緊張したかというと、当時まだ虹橋空港は軍事共用だったようでビデオから景色を撮影したら、入国審査時に撮影ビデオテープを没収されるかもしれなかったからです。「ああ、やっぱり日本とは違うなあ」というのが私の第一印象でした。
でも、同行してくれた初めての私に暖かく接してくれた太極拳の先輩方と上海老師の講習時間やホテルステイ・グルメ・ショッピング・市中散策など楽しく充実したものでした。一週間ほどの滞在でしたが、ホテルステイではメンバー二人ずつの抽選による部屋割りで、たまたま同室した男性とご一緒することになりました。一日のスケジュールが終わると同室のO氏と太極拳やお気に入りの中国の話に花が咲きました。ある晩O氏から世界の文化などの伝播について面白いお話を聴くことがありました。私は大学時代に専攻との関係で初めての外国訪問はアメリカだったこともあり、異文化の話にはたいへん興味がありました。その時のO氏の話は「文化の伝播は偏西風と同じでヨーロッパ・中央アジア・東アジア朝鮮半島を経て日本にたどり着いたが、どうして日本は純粋にそれぞれの国のものとして残るのではなく雑多に存在する日本化された物になったか」というものでした。その答えは「日本はさらに東に伝えたいと思っても昔は海があり東にはまさかアメリカ大陸が存在する事さえ信じられていなかったから、伝えるところがなくて日本は様々な文化のごみ箱になった」というものでこの話はその後私が太極拳を続けていける原動力となりました。
いよいよ最終日の講習会が終わった夜に行われたご指導いただいた老師・上海武術館の民間の老師を招いての宴会となりました。まだ太極拳を始めて一年弱で右も左もわからない私でして、実はその時、前話でお話しした傅鍾文老師が出席されていたのです。ビデオでは太極拳の歴史など1分間お話しされていた程度で宴席ではお顔が一致して気づかなかったのです。でも、宴会後撮った記念写真にはそのお姿があり、後年感動したものです。今回上海武者修行に同行した先輩諸氏は、それまでも数回上海へ同じような太極拳習得にいった方が多く、まだ今ほどの大発展した上海とは違いますが、少しづつ改革開放の機運が出てきたころだったのでしょうか、30代まだまだ意気盛んな先輩方と夜の街へと繰り出すことになりました。その頃の上海ではまだ珍しいBarへ行き滞在中の楽しい話に花が咲き、翌日充実した上海での日々を抱き帰国しました。それでは第二話はこのあたりでおしまいとしますが、懐かしい映像がありました。内容は前回お話しした中国西安市老師による市民太極拳教室を地元の放送局がニュースの中で放送したものです。私は残念なことにその回は仕事が忙しく参加していなかったので映っていません。どうぞご覧ください。